フランスで暮らすイラストレーター兼作家で、コミュニティメンバーでもある龍山千里さん @ttymcst によるエッセイ。完全には分かり合いきれない文化が違う人々との暮らし。それを「フィールドワーク」と捉え、観察する日々を綴っていただきます。
最近、義両親の住むブルゴーニュ地方へ行ってきた。
青々と緑が茂ってきて、虫が自由に飛んで初夏の日差しが優しく、エネルギーを満タンチャージしてきた。彼らは7年前に都市から地方へ移り、古い家を少しずつ修繕して住んでいる。
夫は滞在中、久々に会った母親のからだをマッサージしていた。
手の指先から首、背中、脚と足先まで、ゆっくりと時間をかけて全体をほぐす。ほほえましく見ていたのですが、一方で「自分の家族ではない光景だろうな……」と眺めている自分もおり。時々親の肩を揉むことはあったとしても、やはり彼らと比べると、自分には家族との身体的距離感がもーっとあるように感じるのだ。
滞在中、彼ら親子は肩を組み、強くハグをして、一緒のブランケットをかぶって隣合って読書しており、その様子を観察してしみじみ、やっぱり文化のちがいかな~と興味深かった。みんないい大人なので、その様子はより際立ってふしぎに私の目に映っていた。
一方で、ふれあいで癒しを感じる自分というのもたしかにいる。
久々に会った人との頬へキスやハグは逆にないと少し寂しく感じるときもあり、夫婦間のスキンシップも変化した。身体感覚も文化や人に適応しているのだろう。
でも私は自分の家族から感じる、遠くても、触れ合わなくてもたしかに感じる愛情や繋がりの在り方も自然でとても好き。
今回の文章を構想しながらふと、肌に触れること、ということから連想して、十八歳のときに受けたマッサージを思い出した。
なんだかもう全てが滞っており、理由はわからずともとても苦しかったときに、何を機にか母親に連れて行ってもらった。首もとを施術士さんに触れてもらったとき、ずっと堆積していたなにかが動いてただ泣けてきた。ずっと霞んでいた雲が晴れて、帰り道は景色がちがう心地でした。
マッサージの技術以前に、他者や自身がからだに触れることで生まれる癒しってあるよなあ、とあらためて思い出しました。触れることの関わり合いみたいなものってあるような。
話は少し飛びましたが、自分が感じた触れ合いに関する文化のちがいを滞在中に義母へ話してみたところ「たしかに、私たちは結構常に触れ合いたいと思うかもしれない。小さい頃はずっと父親の膝に座って本を読んでいたのを今でも思い出すよ。いつもそばにいたかった。でも、母親に対してはなかったかな? そういえば一切なかったわ」とこれまた興味深い返事でした。
家族だから、とかでもなくて、感じる愛情の表現のひとつとして触れ合いが自然とあるんだな~とそのことばで再確認していました。
追伸:
滞在中に彼らの親子愛を傍観しながら、私は「毒になる親」(スーザン・フォワード著)という強烈な本を読み始めました。親子間で主に親から子へ与える影響をパターン別に分析した本。まだ読み途中ですが、脈々と紡がれている親子の繋がりと対峙するのはなかなかカロリーがいります……!一方で何かから解放されていく感覚もあり、これまで読む気にもなれなかったのですが、ようやく今なにか時が来たように感じて、親子という他者でありながら縁深い関係を再探訪しています。
(2024/05/25公開)
龍山千里 | Chisato Tatsuyama
1991年神奈川出身、フランス在住。テキスタイル業界で働いた後に渡仏。パリで半会社員生活の傍ら、コラージュ制作やデザイン、記事執筆。
instagram @chisato_tatsuyama
【編集部より】
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